今でもはっきり覚えている。1968年5月16日9時48分、まだ幼稚園児だったオレはなぜか店舗兼自宅にいた。2階建ての3軒長屋の一端である。今風に言えばテラスハウスである。店舗付きなので、メゾネットタイプというような、かっこいいもんじゃなかったが。
まだ家にいたのは、その日の幼稚園はなぜか11時からだったためである。そのためその時間、母は台所でオレの昼食の弁当となるサンドウィッチを作っていた。送迎のスクールバスの来る時間が迫っていた。オレの着替えは済んでいた。
オレはちょくちょく台所に顔を出し、邪魔にならないようにサンドウィッチの中身を注視したりしていた。口出ししなくても、まあ邪魔になっているわけですけど。
そこにドカンと大きな縦揺れが来た。母はすぐにガス台の火を消し、台所から飛び出してきた。
弟がいるはずだったのだが見当たらない。大きな揺れは横揺れに変わっているが続いている。2人で弟を探した。高いところにある色々なものが落ちてきた。
弟は、5月なのにまだ使っていたこたつに潜り込んで寝ていた。そのため発見に時間が掛かった。オレとは3つ違いなので当時はまだ1歳。弟は1歳児ながら、地震のときには机の下にもぐるという動作を行っていた。こたつに潜り込んで寝るのが好きだっただけだが。
母が弟をこたつから出し、店側側から外に出ようとしたら、ガラスのシャワーになっていた。父の稼業はガラス屋だった。店舗には商品のガラスが左右の棚に収まっていたのだが、大きな横揺れとなったため、板ガラスが左右の棚から飛び出し、割れながら飛散していた。
母が店舗側から外に出ようとしたのは、台所→居間のこたつ→店舗という直線の動線だったからで、勝手口は台所横なので戻る形になるからだろう。
すごい光景になっている店舗側からの脱出は諦め、勝手口側から出ようとしたが母の力では開かなかった。結局、地震が小康状態になってから近所の人が数人がかりで開けてくれた。父や従業員のお兄さんは地震当時出先だったので、近所の人が巡回してくれなければ閉じ込められたままになるところだった。
外に出ると地面にパックリと大きな割れ目が。大人一人が嵌まる大きさである。粘土層であまり地盤が強くない場所だった。
途切れなく詳細に覚えているのはここまでである。地震の本震は長くても数十秒、弟を探したのは数秒だったはず。でもほんの少しの差で、ガラスのシャワーになった店舗側からも、地面に大きな亀裂ができた勝手口側からも外に出ることができず、命拾いした。
幼稚園では壁が崩れたりした。復旧までの1週程度お休みとなった。その日は11時開始だったので登園した園児はまだいなかった。そのため、園児が怪我や阿鼻叫喚ということも起きなかった。理由は覚えていないが、11時からという開始時間は、3年通った中では他にはなかった。園の都合でたまたまのことだった。
この地震、当時は十勝沖地震とされたが、今Wikipediaで調べると三陸沖北部地震とされている。
1968年十勝沖地震と命名されたが[4]、この地震の発生メカニズムはいわゆる“十勝沖地震”とは異なり、地震調査研究推進本部の分類における「三陸沖北部地震」に該当する。本来の十勝沖のアスペリティが破壊されたものではない。
破壊開始点はアスペリティより離れた海溝よりの場所にある[1]。震源は1994年に発生した三陸はるか沖地震の北東にあたり、本来であれば『三陸沖地震(または三陸はるか沖地震)』と命名されるべきものだった。しかし、速報値の計算の際に震央が本来の位置より約50kmほど北に計算され、津波警報の発令など緊急を要する各方面からの要望により早急に地震の名称を決める必要に迫られた為、震源を十勝沖として発表した事から『十勝沖地震』と命名されたものである。また、S波の験測が困難で有ったため、深さが求められず 0km とされた[5]。
- 本震
住んでいた八戸の震度は5。当時の震度の決め方は現在と異なるので、個人的には、体感や被害は現在の震度だと6強程度に感じる。
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当時の記憶から、縦揺れがくるとヤバさを感じる。311もそうだった。
教訓は何もない。もたもたしている間に閉じ込められていただけである。しかし、もたもたしていたおかげで命拾いした。もたもたの原因となったこたつと弟には、足を向けて寝ることができない。こたつがあれば足を入れるし、弟はアッラーとは違うので方角が決まっているわけじゃないから、どっちの方角にいるかは気にしたこと無いけど。