いろいろやってみるにっき

てきとーに生きている奴の日記

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乗ってみたいバス路線 前編

今週のお題「好きな街」

 

もちろん現在住んでいる横浜である。現在住んでいる住居は、人生の中で最も長く住んだ場所になった。賃貸なのに。

 

子供の時から細かく引越をしてきた。記憶が無い赤ん坊の時点で2回。2軒目で保育園に入った。ここから記憶がある。そのあと父の初めての一軒家の持ち家。その持ち家を賃貸に出して、店舗兼住宅の二階建三軒長屋の1軒に。左から理髪店、塗装店、ウチだった。

この店舗兼住宅には幼稚園から小学校2年の途中まで。自営とはいえ共働きなので、幼稚園に入れる年齢になるまで保育園という作戦だった、ということは後になって理解した。2学年差の兄は幼稚園、オレは保育園という時期があった。

小学1年の終わりに、可愛がってもらっていた父方の祖母が亡くなった。そのため、祖父宅に同居することになった。未だ本籍地にしている場所である。これにより1年通った小学校からは遠く離れた。親は学区外通学を選択した。学校に届け出る書類には住んでいる住所では無く、以前住んでいた店舗兼住宅の住所で届け出続けた。オレは義務教育の90%弱を学区外通学で過ごした。弟なんて100%。坂を下って徒歩数分に小学校、坂を上って数分で中学校というロケーションだった。小学校低学年の頃は地元の中学生が怖かった。

小学5年の時にその祖父宅のそばに父の持ち家を新築。そこに高校3年まで住んでいた。当初見せてもらった図面では2階建て、完全個室では無いものの仕切りの入った子供部屋、オレや父の趣味である写真用の暗室などもあった。しかし建った家は平屋。子供部屋は3人で14畳の絨毯敷。話が違ぁ~うと思ったが、最初の設計から平屋建てへの設計変更の間に、不渡手形を掴まされたと後年聞いた。手形取引怖い。支払いサイトが長い上に突如不良債権化。それで予算&設計を縮小。逆にいえばそれでも建てたんだからすごい。確かに建築時期も当初よりは遅れた気がする。

 

大学1、2年は大学のある札幌へ。山の上にある校舎までの間にはキタキツネが出るような沢もあった。冬季の学校帰りは滑り降りるように帰った。今はその校舎は系列の別大学になっていた。ということを知ったのは長野オリンピックの報道。Wikipediaを見るとまた出身校の札幌校舎に戻ったようだ。なるほど、吸収合併なのね。

 

ここまで長かった。ようやく横浜である。就職した兄と同居ということで、大学3年からは兄が選んだ横浜駅近のマンションの一室。ちなみに兄の就職した先は東京都内の商品先物取引の会社。大学時代は大和市に住んでいたので、そこらへんで同居なら大学に通いやすいなというので同居に同意したのに、兄は遊び優先で横浜にしたらしい。定期券代が高くて死んだ(比喩)。そして兄の部屋にはエアコンがあったが、オレの部屋にはエアコンが無く夏場は死んでた(比喩)。このマンションは現在住んでいる場所から徒歩数分である。

問題が起きたのは、3年生から4年生になる春休み。オレが実家に帰っている間に兄は交通事故に遭った。兄友人の車に同乗していてということだった。色々謎などもあるが割愛。入院期間も3か月くらいになり、最初兄がベッドから動けない間は、母が一時的にオレと同居する形で病院に通った。入社して1年の会社は退社し、兄は実家に戻ることに。そうなるとマンションの家賃は全部ひとりでオレが背負うことになる。友人に相談し、大学近くにアパートを探し引っ越した。大学4年の5月である。

 

しかし就職先は、3年の時点で第一候補を住んでいるところから近い会社ということで選んでいたのだった。当時は売り手市場。ウチの学科は一人に3件は来ていた。そしてそのままその会社に合格した。場所で決めたので、あとから「あそこは(お前には)難しいぞ」と言われ、落ちて別の会社の就職試験を受ける気満々だった。

大学のそばで4年の5月にもなってからバイトを探すのは大変だった。しかし、友人から面白いバイトを紹介してもらえた。タイヤのテストドライバーである。某タイヤメーカーが運送会社に委託し、距離を稼ぐというものだった。3交替制1人320km8時間。みんながやりたがらない朝4時からのシフトで、一番いいソアラ2.8GTに乗りまくった。コースは決まっているし、砂袋が助手席・後部座席に積んであるので誰も同乗させることもできなかったが。

 

就職して最初の住居は男子寮だった。兄との同居が続いていれば寮に入らなくてもよかったわけだが、横浜に戻れた。自動車会社の寮を借り上げていたものだった。4人部屋はキツかった。そして入社が決まった後、株式や為替の市況が好転してバブルが始まった。1年後輩は入社人員がドンと増えることになり寮も増えることに。4人部屋は生活リズムが異なる二人のせいでキツかった。そこで、生活リズムが同じ同室の同期と共に、新入社員用に増える新しい寮に移ることに。その寮は2人部屋。生活リズムが同じことが分かっているので、新たな相棒でギャンブルするよりはと、同じ部屋を希望しその通りとなった。ここまでは横浜市内。ただ、最初の寮よりも駅から遠く山の上。以前にも書いたが職場はアレな上に終電まで働き、朝9時までには2時間掛けて通う感じ。

 会社は東京都内に通う社員用に葛西に新築寮を用意した。借り上げだが。オレはキツくても横浜に住みたかったのだが、指名されてしまい葛西へ。駅まで徒歩1km以上。しかし会社は直線で1km弱なので規定上バス代は出さないという。雨の日はずぶぬれだった。会社のテニス部に所属していたのだが、毎週葛西から横浜に車で通った。横浜に戻りたかった。

 

バブルも崩壊し、職場は点々。少し長めに担当した証券会社の担当が終わった後、自社待機ということになった。上司が半年ずつで担当させるつもりだった2件を、顧客の都合で半年で両方ということに。オレと後輩は同時に2件担当し、無事納期通り&稼働後もノートラブル。仕事できると仕事無くなるとかなんだよって思った。自社として通う先は今住んでいる場所近隣のビル。残業代も無くなり、通帳の中身がキツくなった。待機は3か月で終わり今は亡き証券会社へ。そちらも1年ちょいで終わり、保険会社へ。また通勤が遠くなった。葛西では寮長をやったりしていたのだが、場所も管理人もあまり好きでは無かったのでこれ幸いと武蔵境の寮へ。管理人には気に入られてたけど、めんどくさいんだあの人。寮の環境はオレが寮長の間に随分改善した。呼び出し電話から、二人部屋の各部屋に2台の電話(外線発信可)、エアコンも各室に、BSアンテナもベランダに上げてよいことにした。管理人はBSアンテナのメーカー揃えろとか言い出したので、共同購入にした。ね、めんどくさいでしょ。

 

移った先の寮は風呂ではライオンが湯を吐いていた。サウナもあり週1使えた。そして寮の管理人さんが寮の食事の調理人でも兼ねていたのだが、土曜日は必ずカレー。会社からメニューの指示が来てその通りの食材が送られてくるのだが、食材をやりくりして土曜日にカレー。我々もウェルカムだったが、管理人さんも作って置いておけば、寮生が勝手に食ってくれてラクという事情もあったようだ。そして、ついにカレーにカレイの煮つけが。マジで吹いた。

でもまた職場に問題が。古い系列のプロダクトから新しい系列のプロダクトにリプレースする仕事に着手。先行事例があるので、その事例に倣い、その時にやるべきことを着々とオンスケジュールで進めていた。しかし上司がよその話を少し聞きかじってきては「あれは、どうなってる」と始めるようになった。でも、今それを気にしても答えが出ない、あるいは今調べても(状況が変わっていくので)意味がないというものばかり。進捗がグダグダになり始めた。部下や同僚が上司の言うほうを優先するためである。現時点でやっても意味がないことをやらせるなと申し入れたが、オレが悪いのだという。「▲▲担当のA課長が□□部分に気を付けろと言ってた。」「○○担当のB課長が◎◎部分に気を付けろと言ってた。」ばかり。A課長もB課長も技術的にも明るいが、こちらのバカ上司は技術的は真っ暗。A課長もB課長もこっちの進捗は知らないし、雑談ベースで「気に掛けておけ」と言ってくれたアドバイスをすぐやる課長。いつからすぐやる課になったんだよ。さすがに意欲が減退し、それまで余りまくっていた代休、有休休暇を駆使して寮にこもってた。そして次のあてもなく退職を申し入れると、前の上司に呼び出された。厳密には常駐している顧客先にその前上司が来て、別室に呼ばれたのだが。

  「なんでO課長(その時の上司)はまだ課長だと思う?」

  「部長よりも年上で定年まで数年だぞ」

  「そんな人のために会社を辞めるな」

ストレート過ぎたが分かりやすかった。確かに当時の上司は仕事できない人だった。そして、しばらくして別の保険会社担当に変えてもらえた。しかし、寮からは乗換が多すぎて通うのが大変。ちょうどいい寮も無いのでアパートを探して出ることに。玉川学園前にした。

その保険会社の担当は1年ちょっとで終わってしまった。某国の郵便貯金を作る仕事に廻された。そして下記のようなできごともあった。

その後、某国案件を終わった後、今度は千葉ニュータウンに通う羽目に。片道3時間。9時始業に間に合うためには5時台に出発しなければならない。定時に出ても21時過ぎに帰着。キツいので別の仕事を見つけて逃亡。いくつかの顧客を担当したが、川崎市内で働くことが多いのに玉川学園前に住んでいるのは通勤時間がもったいない。そこで横浜に戻ることにした。

 

調べてみると、横須賀線沿線では保土ヶ谷だけ落とし穴のように家賃が安いことが判明。駅伝でも中継ポイントになっている、保土ヶ谷橋側の崖の上のほうのマンションへ。ここには数年住んだが、都内での仕事が増えたこともあり、現在のところに移った。

 

さあ、何回引っ越したでしょう?全部書いた。そしてそのせいでタイトルの本題にはたどり着かなかった。というわけで本件は続く。

 

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